沿革
沿革History
創業期
- 1922(大正11年)
- 五十嵐與助「日米水産株式会社」を設立(資本金50万円)
北千島幌筵島を拠点として北洋鱈漁業を開始する - 1925(大正14年)
- 本格的に北洋鱈漁操業(漁獲数60万尾の記録的水揚げ)
- 1926(昭和元年)
- 東京・芝浦工場内に肝油・塩蔵鱈保管用として第1号冷蔵倉庫を建設
- 1927(昭和2年)
- 東京・呉服橋販売所を拡大し、「粕漬の鱈」を産地直送を謳って全国に販売する
- 1929(昭和4年)
- 米国向け塩蔵鱈の輸出を再開、芝浦にトラスコン冷蔵倉庫2棟完成
- 1936(昭和11年)
- 天皇御名代久松侍従、北海道加熊別漁場を視察される
- 1940(昭和15年)
- 加熊別湾に建設中の不凍港が完成
これを政府に献納し、「與助港」と命名される(建設期間6年2か月、港内面積1万5千㎡) - 1941(昭和16年)
- 五十嵐清隆が代表取締役社長に就任
漁業基地(北千島)から撤退、鱈の粕漬の製造を停止
冷蔵倉庫業の専業化と食品事業再開
- 1948(昭和23年)
- 五十嵐冷蔵株式会社に社名変更
- 1950(昭和25年)
- 芝浦に製氷工場増設
- 1955(昭和30年)
- 食品部を新設、鱈及び冷凍食品の加工販売事業を再開する
- 1956(昭和31年)
- 芝浦に冷蔵倉庫を新設(現 芝浦物流センター)
- 1958(昭和33年)
- 東京陸運局より貨物自動車運送事業の許可を受けて運輸部を新設
- 1959(昭和34年)
- "ロットナンバー"管理を導入
- 1962(昭和37年)
- 畜産振興事業団の指定冷蔵庫となる
- 1966(昭和41年)
- 運輸省から新倉庫業法に基づく営業許可を受ける
輸入畜産物が増加 - 1969(昭和44年)
- コンピュータによる在庫管理を開始
冷蔵倉庫・設備の拡充
- 1970(昭和45年)
- 運輸・荷役をサポートする「五十嵐サービス株式会社」を設立(現 株式会社五冷サービス)
- 1971(昭和46年)
- 大田区平和島の団地冷蔵内に京浜工場を開設(現 京浜第一物流センター)
一般貨物自動車運送事業の認可を受ける - 1973(昭和48年)
- 団地冷蔵内にB棟増設
- 1977(昭和52年)
- 本社新社屋完成、D号冷蔵倉庫を増設
- 1978(昭和53年)
- 東京水産ターミナルに大井工場を開設(現 大井物流センター)
- 1983(昭和58年)
- 五十嵐康之が代表取締役社長に就任
- 1988(昭和63年)
- 五十嵐ビルディング竣工
日本食肉流通センター内に東扇島第二物流センター開設
本社内にレストラン「ヤムヤム」オープン - 1990(平成2年)
- タイ国に合弁会社タイマックス・コールド・ストレージ社を設立
- 1991(平成3年)
- 川崎市東扇島に東扇島第一物流センターを開設(一部を自動倉庫化)
タイマックス社の冷蔵倉庫完成 営業を開始する - 1994(平成6年)
- 大田区城南島の東京大井コールドプラザ内に城南島物流センターを開設
低温一貫物流の展開
- 1996(平成8年)
- 運輸部、三温度帯同時配送を開始
- 1997(平成9年)
- 埼玉県上尾市に上尾ロジスティクス・サービス・ステーションを開設
川崎市東扇島に東扇島ロジスティクス・サービス・ステーションを開設(全体の85%を自動倉庫化) - 1998(平成10年)
- タイマックス社、第二冷蔵倉庫を増設
- 2008(平成20年)
- 埼玉県日高市に日高ロジスティクス・サービス・ステーションを開設(食品加工場を併設)
- 2012(平成24年)
- タイマックス社、第三物流センターを増設
- 2015(平成27年)
- 川崎市東扇島に東扇島第五物流センターを開設
- 2018(平成30年)
- 東京団地冷蔵の整備事業が完成、京浜第一物流センターとして再稼働
- 2020(令和2年)
- 五十嵐隆晴が代表取締役社長に就任




五十嵐與助創業前史Prehistory

創業者、五十嵐 與助(いがらし よすけ)は1878年(明治11年)、新潟県柏崎で生まれました。
家業の没落により9歳で学業を断念し丁稚奉公に。様々な職業を転々としながら経験を積み、20歳で青果物の行商を始め、その2年後には東京市京橋区桶町(現在の八重洲)で「八百與(やおよ)」を立ち上げます。
與助は、当時青いままで売られていたバナナの早期色付け法を編み出して、色づいたバナナがおいしく食べられる日数を延ばし、これが東京中の評判となり、宮内省から「御用達」に指定されるまでの名門果実店となりました。
果実商として成功を収めた與助ですが、ある出会いから当時水産大手の日本漁業株式会社の経営に携わることになり、33歳で同社の取締役に就任します。
ここでも、後に社訓として唱えることになる「進取と独創」の精神を如何なく発揮し、日本で初めて、タラ製品の米国向け輸出を成功に導き、また、北千島の漁場で陣頭指揮に当たるなど新たな事業を興しながらも同時に合理化を進め、同社の業績回復に多大な貢献をしました。
1918年(大正7年)、欧米を視察した與助は、「日本の漁業を育て、水産物の輸出を以て国力の増強を図り国際社会の中で列強に並びたい。」という意欲に駆られ、43歳で独立し「日米水産株式会社」を創設します。